曹 洞 宗

曹洞宗について

読み方として、正しくは<ソウトウシュウ>と澄んだ読み方をする。
インドでお釈迦様によって開かれた仏教は、多くの弟子たちによって受け継がれてきた。そして、インドから中国へ伝わり、中国ではお釈迦様から28代目の達磨大師が厳しい禅の修行に励まれ、禅宗としてその仏道を確立した。
その後、達磨大師の弟子たちにより広く中国中に実践的な仏教としてその教えを定着させた。

 

名称の由来には二つの説がある。
一つは中国の僧、六祖慧能(638~713)が曹渓(広東省曲江県)で弟子に法を伝え、慧能の法孫である良价(807~869)が洞山(江西省にある山)を拠点として禅を広めたという故事により、曹渓の「曹」と洞山の「洞」をとって曹洞とした説。

もう一つは良价の法を嗣いだ本寂(840~901)が活躍したのが撫州(江西省臨川県)の曹山であったことから、洞山と曹山を合わせて曹洞としたという説である。(曹洞宗大辞典より)

 

日本へは、道元禅師(永平寺開祖)が、はるばる中国に渡り、如浄禅師のもとで修行をし、その法を日本へ伝えたものである。
それ故、日本に於ける曹洞宗では、道元禅師を「高祖」と尊称する。
そして、道元禅師から4代目の螢山禅師(総持寺開祖)が、その教えを全国に広めたので「太祖」とし、お釈迦様とこのお二方を併せて、「一仏両祖(イチブツリョウソ)」としてまつっている。
大本山が永平寺と総持寺と二つあるのも、このことによる。

 

禅修行僧

 

道元禅師
道元禅師像

道元禅師は、西暦1200年、土御門天皇の父親、内大臣久我通親公を父に、摂政藤原基房公の娘を母として、京都に生まれ、幼名を文殊丸と言う。
三才で父を失い、八才で母の死に逢い、世の無常を感じて13才の春、比叡山座主・公円僧正について得度。 後に、建仁寺を尋ね、栄西の高弟・明全和尚に師事する。24才の時、明全和尚と共に、入宋(現在の中国)。諸方の叢林に遍参された。

宝慶元年(西暦1225)天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を重んずるもので、道元禅師はその厳しい修行を修めた。
如浄禅師の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。安貞元年(1227)、28才の時で、一時建仁寺に掛錫し次いで深草に閑居された。
なお、一緒に渡宋した明全和尚は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。

天福元年(1233)春、京都・山城に、興聖寺を開き、住すること10年。 44歳の時、波多野義重に請われて越前(福井県)志比庄に向かい、翌寛元2年 (1244)に大仏寺を興し、翌々年に永平寺と改める。
建長4年(1252)夏、健康がおもわしくなく、翌年に、後事を法嗣・孤雲懐弊禅師に譲り、京都で示寂。世寿五十四歳。

道元禅師の仏法を広く世に広めたのが、4代目の螢山禅師(総持寺の開祖)である。

永平寺
大本山永平寺は、高祖・道元禅師が、寛元元年(1243年)傘松峰大仏寺を開かれたのに始まり、その後、現在の吉祥山永平寺に改めたものです。

道元禅師が、宋の天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)から受け継いだ禅風は、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を重んずるもので、永平寺はその仏道修行の根本道場であると言う伝統を、約750余年に渡って今日まで守り、またそれを誇りとして来ている。従って、今日でも、常に、200余名の修行僧が、日夜昔と変わることにない厳しい修行に励んでいる。

永平寺の境内は約10万坪(33万平米)。樹齢約700年といわれる老杉の林立する中に回廊で結ばれた七堂伽藍を中心に70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいる。

深い精神性が感じられる厳粛な自然の中にある永平寺は、四季折々、参詣客が絶えることはない。見学に訪れると、雲水が法話をまじえながら七堂伽藍などを案内してくれ、客膳料理として本膳,二の膳の精進料理も食することが出来る。
また、雲水の修業に近い生活を送る参篭・参禅や研修も、事前に申し込むことによって可能である。

〒910-1228 福井県吉田郡永平寺町志比 TEL:0776-63-3102

永平寺四季写真

永平寺修行僧の一日
起床 午前3時半(冬期4時半)。桶一杯の水で目、口、鼻、耳、頭を洗う「洗面」。以後総ての行いを修行ととらえる。

暁天座禅 早朝の座禅。

朝課諷経 朝の勧行(読経)。

行鉢 朝食。(食事も作法に則り、後始末も自身で行う)。

作務 回廊の拭掃除(8時)に始まり、境内の掃掃除や様々な作務(下草刈、杉起こし、雪囲い、除雪等)。

日中諷経 昼の勧行(読経)(11時)。その後、中食(昼食)をとり、昼の作務、講義、座禅が行われる。

晩課諷経 夕の勧行(読経)(16時半)を済ませた後。薬石(夕食)をとり、各寮に帰る。
(古来禅門では昼を過ぎると食事を取らないことになっており、石を温めて空腹をおさえたことから薬石と言う)。

夜座 就寝前の座禅。

開枕 就寝(20時50)。

総持寺
大本山總持寺(そうじじ)は、
石川県にあった諸嶽寺(もろおかじ)を、元亨元年(1321)太祖・瑩山(けいざん)禅師が諸嶽山總持寺と改められたのに始まる。

この能登の地に於いて570余年の着実な歩みを続けて来たが、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火。フェー ン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまった。
明治38年5月、時の本山貫主・石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命に鑑み、大決断をもって明治40年3月、寺基を現在の地に移した。

現在の總持寺は、横浜市の郊外、鶴見が丘にある。JR鶴見駅より徒歩わずか5分という交通の便の良さに加え、わが国の海の玄関・横浜に位置するところから、国際的な禅の根本道場として、8万坪の寺域を有する偉容を誇ってる。開かれた道場として地の利をいかし、日々、社員研修や参禅会等が行われている。
さらに、教育に力を注がれた禅師の意思を受け継ぎ、幼稚園から大学まで総持学園を運営している。

總持寺は、開かれた禅苑を目指しているので、境内は自由に参拝できる。
また、広い寺領の中の数多い諸堂内も修行僧の案内で拝観できる。

〒23>0-0063 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1 TEL:045-581-6021

 

総持寺

lin

 

  • 〒420-1110 静岡市葵区井宮48 TEL : 054-271-2634 FAX : 054-273-8031
Copyright © shizuoka-zuiryuji.com. All Right Reserved